すみれの壺

青野すみれのブログ

怒らないで、叱る人であること

 

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今日はまたおじいちゃんとの話

 

いつも顔をみにいくと、家の脇でコンコン大工しごとをやっているおじいちゃんです。使わなくなった棚や持ち物をバラしてまた組み合わせて、新しい何かを作る…を繰り返しています。

 

娘がブロックあそびをしている光景に似たものがある。笑

 

 

そして、そんな光景を眺めながら

モノを組み合わせたり、あるもので対応していく考え方は、昔から一緒に暮らしてきたなかで色々触れて影響された部分あるな。と思ったり。

 

行こうか。と思いたつと出かけるまでが早いのも、おじいちゃんの影響かもしれない。

私の潜在的な身軽のお手本なのかもしれません。

 

あと怒らない。

でも決して甘やかされた記憶はない。

  

 

覚えているかぎり

おじいちゃんや、亡くなったおばあちゃんは私を叱ってくれたということ。

 

帰りがものすごく遅くなったとき、、

友だちと家の近くの川に柵を越えて入って遊んでいたとき、、、

 

ちょっと来なさい。と、なぜダメなのかコンコンとお説教してくれた。

決して感情的に「怒る」のではなく。

 

 

怒られたときも

叱られたときも、その瞬間はどちらも

つまんない気持ちになって同じようでも、

 

叱られたことは、しっかり自分のどこかに刺さっていて、後の経験と混ざり合って納得できることが多い。

その納得があるから、叱られた人に対しての信頼とか、影響が生まれていく。

 

これは

仕事でもそうだったな。と思う。

 

 

逆に感情的に怒られたのって、後になってもイライラした嫌なイメージしか残らない。

父や母はまさにそれで、ただ私の行動にガミガミ怒ってた記憶しかない。

 

門限に間に合わなかったときも、

無断で外泊したときも、

約束を守れなかったことに、ただただ怒ってて、許してくれない。

なぜ、怒っているか。どうしてダメなのか。そういった気持ちが伝わった記憶がない。

 

だからある程度大人になってからは、「また怒ると面倒だし、どうせ許してくれないし」という感じで、怒られることを回避した行動ばかりしてたところがあった。(母に対してはいまでも…)

そして、ウソにウソが重なっていくんですよね。

 

そこが、今も十分に分かり合えてない原因のひとつかもしれないと思う。

 

 

 

愛情が感じられないというわけではないけれど、

感情的な怒りは、どこか身勝手さを感じてしまう。

怒ってるのは自分の感情処理のためなんでしょうね、やっぱり。

逆に叱るのは、相手の事を思ってのこと。

 

 

今はもう叱ってくれることもなくなったけど、

然るべき時に、きちんと叱ってくれてたからこそ、おじいちゃんが一貫して大切にしてきた考え方を、私は自分なりに理解しているし、こうして耳が遠くなってコミュニケーションがとりづらくなっても

信頼してやりとりできているんだろうな。と思う。

 

 

子育てしていると、どうしても感情的に怒ってしまうことがある。

きつく怒っても、難しいコトバで叱っても、まだ幼い娘にとっては

「お母さんの気に入らないことをしてしまった」で今は同じなのかもしれない。

 

でも、一本筋を通した意見で叱っていくことで、伝えられる愛情や信頼を育てていけるんだということ。

ただ優しいだけじゃない優しさを伝えられるんじゃないか。

 

トンカチを打つおじいちゃんの姿をみながら、そんなことを考え、自分もきちんと叱れる人になろう。そう思ったのでした。

 

 

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