すみれの壺

青野すみれのブログ

習慣を変えるのではなく仕組みを作る

勤務から離れ、久しぶりに時間の拘束がない日々がやってきました。

この変化の時がだいじ。

本当にだいじ!

 

2年前に一度失敗しています。

あの時は長く走り続けてきた反動も大きかったのだと、自分を許しているけれど、まぁ緩みまくって時間の使い方が下手くそでしたね。

 

 

失敗を踏まえて。

 

自由ではあるけれど、

習慣を変えるのではなく新しく

自分に仕組みを「作る」ことが必要です。

 

 

週末は、特にイベントがない限り、終日実家に集中することにしました。当面は片付けですね。まだ出口が見えないトンネル状態ですが、、、

 

 

新たに作るのは平日の行動です。

 

  • 朝は8時半に家を出る(娘の送り)
  • それまでに着替え、髪と顔を整えて。
  • 家事もあるなら、それまでに済ます(洗濯・夕飯下準備)

まあ、当たり前のことです。

ただ、何時でもいけると思うと、この当たり前の事になぜか時間がかかるんですよね。

出勤するときと同じスタイルで家を出て、戻らない。というのが一番のポイントです。

 

以前よりも、30分ほど出発までに余裕が持てることや、イレギュラーがあっても1分1秒必死で工面しないで良いということは、本当に有難いことなのです。

 

 

9時から仕事です。

そう、家庭の事務処理もPCを持ち出して外ですることにしました。

あとはブログ書いたり、

こんな私にも「書く」ということをお願いしてくださる方もいらっしゃって。

そういったことや、

あとは新たに勉強したい分野への読書に使います。

 

9時から働くことにしたので、

拠点がいるな。と思い、早速スタバカードへチャージを増やしました。

ただうちの近所のスタバは10時オープンなので、それまでどうしましょう。とかなり悩みましたが、

一回お家に戻ると絶対、ダラッとしてしまう。

娘の送りの時間を遅くする?

いやいや、家事と朝支度がダラダラするだけでしょ。

 

 

ここは自分に厳しく!と思い、

近くのイートインがあるコンビニや、

マクドナルドが良いな。という結論に。

マクドってあんまり行く習慣がなかったのですが、、すっかり朝マックにお世話になっています。

 

他にも

9時〜10時の使い方としては、

病院の用事だったり

銀行の用事だったり

そういうのに回すのが賢いのかな。というのにも気づきました。(遅い…)

 

とりあえず外に出ろ!!

と自分に新しく作った仕組みを叩きこんでいるところです。

あとはこれが習慣になれば、

なんてことないんです。

 

この変り目で谷底に落ちてしまわないことが大切。

頑張れ自分。

 

別れを受け入れる、前に進む。

布団の中で、

Amazonプライムビデオのアイコンが青色に変わっているのに気づいて押してみた。

 

そこにピックアップされていた

君と100回目の恋

学生恋愛映画?と少し躊躇ったけど、坂口健太郎の容姿も、miwaの歌も嫌いじゃない。何だか吸い寄せられて、そのまま夜中に観ることになり。。。

 

 

  • 失った相手への想いがいくら大きく強くても、いくら時間を戻せても、運命は変えられない。

 

  • 受け入れて、前に進むことしかできない。

 

  • 可能な限り前向きに別れを受け入れること。遺される側よりも、大切な人を遺して去っていく側の方が何倍も何十倍も辛いということ。

 

恋愛にキュンキュンするのかと思いきや、そんな運命や死へのテーマが自分にリンクして引き込まれました。

 

 

誰もが大切な人を亡くしたとき、一緒に過ごしてきた懐かしい想い出をめぐって、もう会えない淋しさとか、これ以上感謝を伝えられないことに悲しみを嘆く。

 

わたしと弟は

さほど想い出が多いわけではなかった。

普段から会話もほとんどないし、大人になって一緒に出かけることもない。

 

ただ、わたしが生きていたら、弟もずっと居るんだと小さい頃からずっと何も疑ってこなかった。

 

わたしがちょっと先を走っていて、その後ろに弟も走ってる。

 

これから何十年もそう「ある」と当たり前に思っていた。

 

 

もっと仲良くしとくんだった。とか

もっと優しくしておくんだった。とか、

そんな風な感情よりも

 

わたしの歩む未来の中に、後ろを振り返っても、もう弟はいないんだということが、とてつもなく、淋しくて淋しくて、たまらなくなる。

 

若くして逝ってしまうということは、

想い出よりも、共有できたであろう未来への後悔が大きい。

 

でも先立つ人は

きっと思っている。

自分の死に執着して悲しむ時間はもったいない。ずっと一緒にいるから、自分の時間を前に進めて。

 

そこに執着して立ち止まっていても

運命が変えられるわけではないー

 

 

受け入れて、進むことができたとき

また一緒に歩めるんだろう。。。

 

 

寝不足だからか、寝る前に観たからか、作品の余韻が夢のように断片的に残っていて、

今日は朝から何だかフワフワしています。

 

 

環境の変化にご注意を

娘の卒園が近づいています。

 

卒園するといっても

保育園なので卒園式のあとも通いますし、入学式する前から小学校にも通います。

 

なんか節目がないので、

気持ちの切り替え大丈夫かな。と思っているところです。

 

 

まだ歩かない時期からお世話になり、気がついたら1日の大半を過ごしていたのが保育園。いや、人生の大半を過ごしてきたといってもいい。

細かく計算しなくても、家よりも過ごした時間は圧倒的に長いのです。

 

その環境が変わるんですよね。 

 

新しいランドセルや、「新一年生」という心躍るワードに隠れがちだけれど、

「生まれてから1番の大きな変化です。

注意深く見守ってください。」

 

入学に向けての説明会で

先生から保護者へ向けられた言葉にドキッとしました。

 

新しい環境に飛び込む時って、

緊張して、

嫌われたくなくて、

迷惑かけないように、かけないように、って考えがちだし、大人がそうだから、きっと子どももそうするのが、当たり前なんだ。って、

疑いもなく、身についてるかもしれない。

 

それが今の時代の心がすぐ壊れてしまう問題。

 

 

今こそ、伝えておきたいことは

失敗しないように、周りに迷惑を掛けないように。と頑張ることよりも、

不安な気持ちや自分が上手く出来ない事を周りに伝えられること。

周りに程よく頼って助けてもらえばいいこと。

そして、あとには感謝の気持ちを伝えることを大切に。

 

 

春になるまでに、意識して伝えておこう。

 

 

別れの春、出会いの春。

この春、新しい環境にいく方も、また迎える方も皆さん

周りに合わせる事よりも

多少嫌われてもいいくらいで良いんだと思います。

 

最後に頼れる自分を大切に。

 

物足りなさの正体

最近は実家の片付けをしているわけですが、

 

わたし自身、

片付けや掃除が好きなわけではありません。シンプルに暮らしている方に、そういった理由からモノを減らしている。という方もたくさんいらっしゃる。

 

わたしもその一員だと思っていたのですが…

 

実家の片付けや掃除をはじめてみて、
気づいた感覚があります。

 

なぜか「充実感」と「ワクワク感」があるのです。

 

もちろん両親とのやりとりで、戸惑いがあったり、弟の遺品も整理していますから、悲しみの気持ちもあります。
でもそれらとは全くの別の感覚です。

 

 

振り返ってみると、

じぶんの家が十分に片付いてから、

「とても身軽で、家事もスムーズ!気持ちがいい!」そんな暮らしの反面で、

ずっと何か見えないところに、物足りなさのようなものがありました。

 

わたしはその違和感を、お気に入りのものとか彩りとかいう

アクセントみたいなのが足りないのだろうか…と、ずっと探してきた気がします。

 

でも違った。

 

 

わたしがずっと感じていた物足りなさは

じぶんの身の回りに、手放したり、片づけたりして整えていくものが、もうこれ以上ないことだったのかもしれない。

 

虚無感だったのかもしれない。

 

 

モノへの執着を減らし、手放していくということは、暮らしや人生を整える手段としてとても有効だと感じてきました。

 

モノを減らすことが目的ではない。

やりたいことに集中するために減らす。

 

こういったフレーズはよく目にします。

 

ただわたしの場合は減らしたりキレイに整えていくことが、ちょっと「目的」

なんでしょう。

それに気づいたら、なんかもっとできることがあるように思えてきました。

 

 

明日で、今させていただいている

お仕事も終わりです。1年余りたくさん経験させていただいて、うまくいかない事も多かったけれど、色々自分で考えて行動する機会に恵まれていたな。と。

 

感謝です。

 

「書く」という筋肉が不足しているぞ。継続は力なり。

書くことをまた始めよう。

復活させたブログ。

 

自分の気の向くままに

マイペースに綴っていこう。なんて呑気に構えていたけれど、

 

「書く」ということは、そんなに甘くなかったということ。

 

 

自分の中に思いはたくさんあるはずなのに、

形にするまでに腰が重い。

本当に本当に重い。(遅い)

 ブログってこんな時間かかるんだっけ?

 

 

めずらしく熱がでる風邪をひき、なかなか治らず、この1週間くらいぶっ倒れてしまったのですが、
歳を重ねるごとに、やはり体力は衰えるな…と感じながら

 

ブログを書く体力については

使わないと衰えるんだろう。と痛感しています。

 

 

「書くことは筋トレと同じ」

いつかどこかでよく聞いた言葉です。

 

本当にその通り。

今のわたしは、書くという筋力が衰えてしまっているから、遅いしすぐに止まってしまう。

筋力不足状態なのですね。

 

 

まずは「書く」を繰り返して筋肉をつけなくては、楽しめない気がしています。

 

まずは日々を文字にアウトプットすること。

ブログを書き始めたころに意識してやっていたように。

 

そうやって積み重ねて鍛えていた筋肉があったのに、継続しなかったから衰えてしまったのかと思うと、

本当に勿体ないことをした気分です。

何事も継続は力なり。というのは

こういうことからですね。

肝に銘じます。

 

 

文章の出来栄え云々もこだわりたいところですが、

しばらくは、「できれば毎日」 を目標にしてみます。

 

 

自炊することだって

片付けすることだって、

何でも同じことなんでしょう。

 

出来栄えは気にせず、まずは続けて、

「筋肉」をつけることで、行動がラクになる。

 

毎日書くことが出来ていた以前の自分を心から尊敬します。

 

健康という名の幸福

 

ー 節分の夜に恵方に向かって 無言で丸かぶりをすると その年は幸福になれるという 昔からの言い伝えがあります ー

 

 

幸福になれる。なんて夢が叶うみたいに言うけれど、家族そろって健康でいることが、何よりの幸福。

 

だから幸福に「なりたい」わけじゃない。

幸福で「いたい」のだ。

 

パッケージに書かれていた文言を眺めながら、そんな屁理屈を考えていた。

 

 

せっかく実家に行ったので、

片付けた後にみんなで恵方巻きを食べようかと思っていたけれど、

帰ることになった。

 

 

昨夜の計画では、母にも片付けに立ち会ってもらう予定にしたけれど、

立ち会うどころか、今日の母は一切わたしと口をきかなかった。

 

さらに、祖父に当たり散らして怒鳴っている。

 

 

 

「やめた方がいい…ね?」

あまりに状況がひどいので、

昨晩は強気だったが、

これ以上は、無理な気がした。

やめて落ち着くなら、

その方がいい。

苦しめるためにやってるわけじゃない。

 

 

「やってあげる」感が少々強かったかもしれない。

綺麗な部屋でのんびり寛げる方が、

気分がいいだろうなんて、お節介だったのかも。

母の苛立つ足音を聞きながら、

父の顔をみた。

 

 

「いや、別にやめなくてもいい。片付けたいんや」

父はわたしに手伝ってほしいのだ。

結局、

捨てるものは父が母に徐々に確認しにいきながら、ゆっくりと今日の片付けは終了。

 

夕飯は

別々の方が、お互い落ち着いて食べられるだろう。

恵方巻き持って帰りなさいー

父の提案だった。 

 

 

 

南南東。自宅のリビングの角を見つめながら考えた。

 

 

どっちが、正解なのか。

片付けしたくない、母の気持ちに寄り添うこと?

片付けたい、父の手伝いをすること?

 

 

わたしは自分の理想を押し付けてしまっていないだろうか?

 

だけど、綺麗にこしたことはないのでは?

 

 

無言の食卓が

答えが出ない状況を長く感じさせた。

 

 

家族みんな、健康だったら何か違ったかもしれない

健康だったら

健康だったら…

 

恵方巻きをかぶりながら

今夜は、そう思うしかできずにいる。

 

「大切」の違い

「明日予定通りまた片付けに行くね」

「あ、あぁ…」

 

iPhoneのスピーカーからでてくる父の声に迷いがある。

 

え、まさか都合悪くなったのかな。

 

モタモタしてると、計画どおりに進まない。

だって、もう2018は12分の1が終わったのだから。感覚値だけど、

家全体の50分の1も進んでない。

つまらない私用と重ねてきたなら、責めてやろう!

 

 

「なんかあった?」

と少し挑発的に聞いてみる。

 

 

「…お母さんがストレスみたいで、血糖値がまた酷く上がってて…」

 

父は片付けを、このまま強行するべきか迷っていた。

 

母が体調を崩したのは

先週出したゴミ袋の山の1つに、

学生時代の親しい友人が弟へプレゼンした「大切な」テニスのタオルが捨ててあるのを見つけてかららしい。

 

 

「お母さん、ひどく落ち込んでて…」

父の言葉を聞きながら、

 

 

「やってしまった…」

口に運んでいた炊き込みご飯が、急に喉を通らなくなった。

 

 

家族のモノを捨てるということは、

十分に注意しなくてはならない。

大切なモノは、その人にしかわからない。

これまで、あらゆる片付けや断捨離の達人たちが、声をあげて注意喚起してきたことである。

私としたことが。。。

 

 

早くもつまずいてしまったか。

 

 

やはり、母も立会いさせるのがよかったのか。

 

 

しかし

1畳分吸っただけで、ダイソンのゴミ受けがMAXになるくらい、掃除されていない。この先もする気配もない。
厳しい様だけれど私は、そこまでこの部屋を放置した人に、今回の片付けに色々口出しする権利は無いと思っている。

 

気になる様子で、

ちょろちょろ見物に来ていた母を捗らないという理由で、追っ払っていた。
何を残すか、決める権利は片付けてる人にあるんだから。と吐き捨てて。

 

一緒に片付ければ全てを置いておくと言うだろうし、ひとつひとつの思い出を延々と語るに違いないからだ。

 

 

 

私だって

きちんと考えてやっていた。

思い出深いモノはもちろん残しているし、

ゴミ袋に入れるときは、必ず父が目の前にいる時にして

最終判断は委ねていたつもりだった。

 

 

 

味噌汁で喉のつまりを解きながら、

あらゆる言い訳が頭の中を巡る。

 

 

「だから、しばらく片付けずに様子みようかと思って…」

父があきらめようとしている。

 

 

母は片付けない。のではなく
片付けられない。のだと思っている。
そしてその現実を見ようとしていない。
特に弟の部屋に関してはそうだろう。

 

 

 

いや、

ここで引き下がれない。

ひとつ間違ったくらいで、負けられない。

私だって悲しいのだ。

泣きたいけど、踏ん張ってる。

 

 

 

わたしはまず、この部屋に人が呼びたい。

友人、彼女、幼馴染、、お線香をあげにきてくれたら、ここに上がってもらって皆んなでお茶して、思い出の品を眺めながら、ああだったね。こうだったね。って、弟のこと、たくさん話したい。

 

わたしの「大切」は、そこにある。

 

 

 

母にもわかってほしい。

モノがいくらあっても、癒されないことを。そこに「人」がいないと分かち合えないことを。

 

 

父がやりたいことは、

私と同じだ。

 

結局、明日の片付けには、母も立会いさせること。

私はキツく厳しい目で、捨てていくけれど、父は母の気持ちに寄り添うこと。

(2人で責めない)

ということで、

話がまとまった。

 

 

 

後悔の気持ち

物を減らして必要十分で暮らすこと
シンプルな暮らしで心も体も身軽でいること


このブログでも綴ってきた私の好きなライフスタイル。


それに反して実家がモノで溢れかえっていることは

時おり記事にも書いてきた


そんな実家の片付けを
今まで後回しにしてきたのだけれど
弟の遺品整理をきっかけにしてスタートすることにした。


まずは弟の部屋を。
春になる前には元ワタシの部屋…
一部屋ずつ進む計画を立てた。
今年中には家全体を終了したい目標がある。


タッグを組んだのは父。


ここ数年、片付け派の 父と私 VS  片付けられない派の 母と弟 で
顔を合わすたび論争が繰り返されていた。わたしがモノを減らしだした頃からは、とくに。
片付けたほうがいいにきまってる。けれどわたしは実家をでていた身だったし、父はまだ勤めもある。十分な時間がないまま、片付けない派が優勢のまま時間が過ぎていた。

 


専業主婦なんだから、片付けくらいしっかりやってよね。モノが多いから家事が捗らないんだってば。主婦業をやるようになってから、私から母への批判はどんどん厳しくなり、関係が良くなる兆しは完全になくなっていた。

 

弟は手術を繰り返しながらも、変わらず会社員生活をしていた。

本人も母も全く掃除しないので、途中から部屋が汚くてくつろげないから

身体を悪くしたのではないか。。根拠もないのに本気でそう心配し、片付けを提案したこともあったけれど、めんどくさがってとり合ってはくれなかった。

 

じゃあお父さんやってあげたら?となるが

父が弟の部屋を掃除するといった選択肢は我が家にはない。

10年以上前に起きたあることから弟は父を亡くなるときまで許さなかった。

父と弟が最期まで和解することはなかった。

何があったかはまた機会があれば書きたいと思う。

 

 

さて、 日に日に足の踏み場がなくなる実家の状況がさらに進行したのは、昨年。
弟の病気が悪化していくとともにその勢いを増していた。


看病に忙しくて、きっと片付けるヒマがないんだろう。
初めてうちの状況を見た人はそんなふうに優しく思うのかもしれない。


でも明らかに違うことをワタシは感じていた。


看病をしながら まるでその不安で淋しい心を埋めるかのように、さらに母はどんどんモノを放置した。新しく買ったモノも、古い書類もごっちゃ混ぜ。いるかいらないかもよくわからない。
もう何も考えたくない。
この子の事だけを考えていたい。


実家に帰るたび
そんな空気を感じるようになった。


まもなくして弟は階段を登れなくなり 2階の自室には行けなくなった。

180センチ以上ある弟がかろうじて横になっていた部屋の真ん中に空いていたスペースも、あっという間に母の荷物で埋め尽くされた。

 

そうこうしていると

今度は母が糖尿病で入院した。幸い手術や命の危険は無いが

インシュリンを打つ生活。

原因は食生活の乱れと睡眠不足。

それを聞いた弟はベッドの上で自分のせいだと落ち込んだ。

 

母と弟はお互い本当につらかった。

 

そのことを頭では わかっているけれど 

汚い部屋を目の前にして

ずっと優しくなれない私がいる。

 

弟にいつか許してもらいたかった。別れがくるとわかってからも

怒らせるのが嫌で最後まで面と向かえなかった父がいる。

 

後悔の気持ちを確かめるように

父とわたしは2日間 ひとつひとつをゴミ袋に詰め込んだ。

吸い込む埃で咳がとまらなくなって、涙がでて泣きたくなる。

玄関に並んだ14袋の気持ち。まだまだ道のりは長い。

 

灯された炎

ひとつづつ、思い出すように作業をする

 

しばらく見なかったアイコンの自分は別人のようにみえる

 

 

この1ねん書かないあいだに、本当にいろいろなことがあった。

1.5倍のスピードで過ぎさっていった2017年を整理しきれずにいる。

 

 

 

書き始めようと思ったのは

その思いを吐き出し整理する意味もある

 

 

おおまかに振り返るとすると

引っ越して

母が病気を患い

弟が亡くなった。。。。。

 

そして2017年の初めに始めた仕事は来月で一旦おわることに。

仕事にめどがたったことが

溜まっていた「思い」に向き合うタイミングになった。

 

これを書いているだけで 目の奥が熱くなってきて

流れ落ちないよう 思わずまばたきを減らす。

 

 

でも負けない。

 

 

もうぜったいになにがあっても

へこたれず前に進む。

ゆっくりしているヒマはない。

 

 

 

わたしがやらなきゃ誰がやるのだ。

 

 

今日から

「実家プロジェクト」を開始する

さっそく今朝から プロジェクト第1段をスタート

すでに埃まみれで、マスクをしていてもくしゃみが止まらず

でてくる鼻水は黒い。。。。

 

内容は次の記事に ということで

 

 

 

昨日から大阪でもめずらしく雪が舞う。

凍り付くような寒さとは対照的に

わたしの中には 

ぜったいに消えない小さな炎が灯っている。

 

 

ただいまです。

忘れていたようで 忘れていなかったあの花の存在

 

かろうじて管理画面のIDPWを覚えていたのは

いつか再開することができたら。。。

こころのどこかが そう考えていたからかもしれない

 

 

おかえり。

画面の隅にある「スミレ」のマークが、心配そうに呟いてきた気がした

 

ただいまです。

 

 

 

2016年のオワリ頃から徐々に失速していた「すみれの壺」がとまってしまったのは

去年の2月。

明日は書こう

来週は書こう。

来月になったら。。

 

ずっと片付いていない部屋があるみたいになる

そうなると再始動はむづかしくなるのは皆同じ。

 

 

なかなか行動できなかったのは

いつのまにか「更新」することが目的になっていたから。

今ならよくわかる。

 

「書こう」

やっとそう思えたのが今日である

 

 

1か月くらいは

記事の整理やブログメンテナンスをしながら

更新していく計画です

 

内容にこだわらず

じぶんの経験したことや考えたことを軸に綴りたいと思っているので

もしご興味あれば。。ということで

読んでいただけるとうれしいです

よろしくおねがいいたします。

 

 

また

ブログを更新していなかったあいだに

コメントや問い合わせからメッセージしていただいた方は本当に申し訳ありませんでした。この場を借りておわびいたします。

 

青野すみれ

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